昭和43年4月11日 夜の御理解
                         中村良一


 只今、御祈念にかかる前に、善導寺の原さんが、私の身体の事を、いろいろ心配して下さって、私の方の昌一郎が、あんなに具合が悪い時には、それこそ、医者の言うとは、全然反対の事で、あんなおかげを頂いたが、親先生の場合も、本当に、まぁどんなもんだろうかといった様なお届けがあったんですけれども。神様の御都合というのは、それぞれの上に、決して、同じじゃないという事。神様の御都合が、まぁ、色々、ございますが、今度も、御本部参拝の時で、直接に、金光様のお取次を頂いて下さった方達が、沢山あった。もちろん、私の身体の事。私の身体の事を思うて下さるという事も有難いし、けれども、私は、その事で、皆さんが、信心を進めて下さるという事にならなければ、値打ちはないと思う。如何に、私の事を思うて下さるとか。または、金光様にお取次を頂いてから、そら、お取次のそれだけじゃなくてから、その事を通して、お互いが、信心にならなければね。もちろん、その事には、私自身もそうである。
 夕方、今日は、お食事を、朝、頂いておりましたから、夕方一緒に頂こうと思うて、食堂に参りましたら、幹三郎がお食事しよりました。そこに、あの何か、何かこう、南京豆か何かの、油で揚げたような奴を、その袋入りが、ちょうど、私が、座っておる前に、こうあったんです。そしたら、その、南京豆の袋を、じーっと、自分の方へ、私の前に置いとっていけんと、こう思ったんですね。あの人は、大体、おとなしいんですけれども。それでもやっぱり、お父さんが、ちょっと摘まんだらいけないと思うもんですから、じーっと、遠慮しそうに、こうやって、自分の方さへ、じーっと引っ張るんですよ。私はもう、本当にその、本当に、涙の出るほど有難いと思うのですよね。私の身体の事を思うけくれるんですから。これはもう、幹三郎だけの事じゃない、みんなが、そう思うてくれておる。ところがその、思うてくれただけじゃ何にもならんという事ですよ。そら特に、親子であれば、お父さんが、やっぱりあの、早死にして貰うよりも、長生きして貰ったが良いのですから。そら、やっぱり、出来るだけ、気の毒なばってん、食べさせられないという風に、こうするんですという事でしょうけれども。それだけでは、何にもならんという事なんです。だから、そこからですね、私は、お互い、本当に思うてくれるなら、下さるなら、その事で一つ、とりわけての信心を、一つして頂きたいと思うのです。ただ、あの、御祈念をするというだけじゃない。金光様にお届けをして下さったというだけじゃない。そのために、やはりあの、それぞれ、信心になって頂きたいと、こう思うのですよ。もちろん、それは、私の事はもう、そうなんですけれどもね。
列車の中でも、皆さんが、やっぱり、私が頂きませんから。皆さんが、やっぱり、いろいろ遠慮して、食べたり飲んだりしておられる。私がね、寝ると、はぁ先生が寝なさったち言うごたる風で、盛んに、あっちこっちで始まるんですけれどもね。まぁ、そういう時に、ほんなら、お神酒なんかでも、嫌いじゃないのですから、まぁみんな頂いておれば、欲しくないという事はないです。けれどもあの、辛抱する事が、この頃は、非常に有難いんです、私は。そして、休みながら、それこそ、辛抱して、このおる訳ですけれども。その事が有難いと思うて、まぁ目をつぶっておりましたら、御心眼にね、辛抱という字を、心と棒という字を頂くんですね。あの、辛抱の棒ですよね。木辺に奉ると書いてある。普通の辛抱は、この辛いという字に、手辺に書いて包むという字が辛抱というじなんですけれど。心眼に頂くのは、心の棒と書いてある。で私は、本当にあの、思わせて頂いたんですけれども。お互いが、何事によらず、辛抱するという事。しかもあの、神様におすがりをして辛抱するという事。しかも、その後が、辛抱させて頂くという事が有難いという事。例えば、一つの事を言うでもです。はぁ言わんで良かったと。後で辛抱した事が、言わんで良かったと、こう有難いというならですね。それはもう、必ず、神様が、受けておって下さるという事。これはもう、最高の神様へのお供えじゃないでしょうかね。尊い信心辛抱というのは。あの辛抱というのは、心のこう、きは心と仰るね。木辺に奉る。心を奉るのでから、神様は、これを一番喜んで下さらん筈がないです。その心を奉るのですから、奉る心には、不浄があってはならない。いろんな汚いものが伴うておったらならない。結局、辛抱させて頂くという事が有難いというものが伴うて、それが、神様の前に奉られる時にです。神様が、それを受けて下さらない筈がない。辛抱という事が有難いという事と同時に、辛抱という事が、神様が、私共は、それを、辛抱をお供えするという事であると同時に、神様は、それを受けて下さるという事が、はっきりこう、分からせて頂いたような気がするんですね。ただ、信心辛抱さえしておればとか。神信心には、辛抱が一番大切でございますとかと言うて、三代金光様が仰る、久留米の石橋先生が頂いておられる信心辛抱でもそうなんです。それが、いかに、神様が受けて下さる事かという事。また、私共が、最高のお供えだという事という事を、字によって教えて下さったように思うのです。皆さん、辛抱しなけりゃいけません。いわゆる、慎むという事でもそうです。言いたい事を言わんで、金光様、金光様で辛抱する。それが、信心させて頂く者の信心生活とは、そういう事なんです。言いたいことは言わず、したい事はする。食べたいものは食べる。そこに、辛抱も、なにも伴わなかったら、もう、一番尊いものをお供えしなきゃ出来ない事になってくるじゃないですか。私が、例えば、お酒を飲みたいと思うても、それを、飲まないで辛抱しておるという事が。その辛抱しておるという事が、この頃、達かに有難い。こりゃ、確かに、神様が、最高のお供えば引き受けて下さっておるなぁという事を感じるんですけれども。私も、ほんなら、そういう修行をさせて貰っているから、皆さんが、私の事を思うて下さり、はぁこれは食べさせちゃいかん、飲ませちゃいかんと言うだけではなくてです。それは、私の命の事を思うて下さるから、そうする訳ですけれども。それだけではつまらん。その事で、そうあるなら、思うなら、それを信心の上に現わして行く。特に、辛抱の上に現わして行くというような信心がですね。大事じゃなかろうかと、私は思うですね。どうぞ。